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HONDA 360 諸元表
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私と HONDA 360
【 P-1 】
【 P-2 】
【 P-3 】
【 P-4 】
メインライン
組立工場の二階で外装部品を組みつけられたボディが、一階のメインラインに
降ろされていく。車種別にエンジンの仕様が違う為、降ろされていく
車種に適合するように、サブフレームやフロントダンパーなどが小組された
エンジンが用意されている。リヤーのリーフスプリングとアクスルビームも
準備されていて、ここでエンジンとボディがはじめて組みつけられ、同時に
リヤーの足回りの部品も取り付けれれる。
エンジンとボディが組みつけられたN360 は、
タイヤなど全ての部品が手際良く取り付けられる。
数リットルのガソリンが入れられて、街で見かける姿へと、
形を変えていく。
ラインの長さは200m以上あっただろうか。
完成検査
『完検』と呼ばれていた班で、完成車の最後の点検が行われる。
『中検』で行われた作業とほぼ同じであるが、最後の検査に
なる為、ボディの僅かな傷、ドアーの開閉具合、フェンダーと
ボンネットの隙間、プレスラインとの段差、各工程で取り付けられた
全ての部品に目を通す。
勿論トルクチェックも行われる。
不具合箇所は直ぐに修正される。
『完成検査』を受けて初めて、ナンバーを取得出来る。
メーカーが『運輸省』に届け出た通りの部品を使用し、車検場で
検査する、ヘッドライトの明るさ、角度、トーイン、
ブレーキの利き具合、各照明類、ワイパーの作動、
排気ガス濃度など、規格に適合していれば、車両を
車検場に持ち込まなくても、登録する事が出来る。
その期間は、検査の終わった日から6ヶ月で、何らかの
理由で登録の遅れた車は、車検場まで持ち込んで
ナンバーを取得していた。『完検切れ』と今でも
呼ばれ、販売価格も安くなるようだ。
そこは、『組立課』に所属する人の
憧れの職場であり、『完検』で良い評価を得た選ばれた人達が、
次の重要なポストに就いていたようだ。
勿論、私には行ける見込みも、推薦してくれる上司もいなかった。
その後、ホンダも上級車種を生産するようになると、益々
責任は重く、経験豊富な人でなければ出来なくなったと聞いた。
生産体制
『組立課』は一勤と、二勤と呼ばれ、二交代制だった。
その他、鋳造課、プレス課の一部、熔接課の一部では、
三勤と言われた深夜勤務があった。
最盛期には、各勤務、2時間程度の残業があった。
その頃は、隔週土曜日が休みだったが、一ヶ月に何台位
生産していたのか、詳しい資料が無いのが残念だ。
NVシリーズの主な車種
・スタンダード \318,000
エンジンは1キャブの31馬力。
タコメーターなし。
合わせホイール。
・デラックス \346,000
エンジンは1キャブの31馬力。
タコメーターなし。
・スーパーデラックス \380,000
エンジンは1キャブの31馬力。
タコメーターなし。
・Sタイプ \382,000
エンジンは1キャブの31馬力。
タコメーター、コンソールボックス付き。
・カスタム \405,000
木目調インパネにタコメーターが付く。
ボディサイドにメッキのモールが付く。
・ツーリング \15,000円高
エンジンが2キャブの36馬力搭載。
・タウン
N360の最終モデルで、1キャブの26馬力仕様にして、トルク重視型の
エンジンを
搭載した文字通り街乗りに適した車種。フロントにスタビライザーを
備える。
フロントシートはベンチシート仕様。サイドブレーキはステッキタイプ。
・1キャブ仕様車にはHONDAマチックと言われた、オートマチック仕様車が
あった。
1970年3月発売
※1970年3月時点。価格は埼玉県狭山工場渡し。
配車
一度、構内の完成車置き場に保管された後、全国の販売店で、
お客様が注文した車種が、次々と工場を後にする。
前述のように書類だけで登録できる為、販売店にナンバーと
検査証が届いても、肝心な車がどこのあるか分からなくて
配車担当者、販売店共苦労したようである。
しかし、他メーカーの新機種投入、エンジンの高性能化、内装の
豪華さ等により、『HONDAN360』の圧倒的シュアも危うくなってきていた。
そしてついに、悪夢の『欠陥車問題』の影響である。
欠陥車問題
1969年(昭和44年)8月、自動車大国アメリカに端を発した、自動車の
走行安全性の問題で、日本では『日本自動車ユーザーユニオン』により
『未必の故意』に依る『殺人罪』で当時の社長『本田宗一郎』氏が
東京地検に告訴されたのである。
N360のユーザーが事故を起こし、原因が『HONDAN360』の構造的欠陥で
あると言う事だった。
ホンダ技研がある事故の当事者に対して、8千万余りの『見舞金』を
支払ってしまった事により、他のユーザーも結果的に便剰するような
形になり、『ユーザーユニオン』の代表者二人により『告訴』されたのである。
ホンダ技研の担当者により、車の安全性を示したり、ユーザーの運転技術の
事などを説明しても受け入れられず、ついにはユーザーユニオンの代用者二人を
『恐喝』容疑で告訴することになった。
1977年(昭和52年)8月、第一審で被告二人に、懲役3年と2年の実刑判決が出る。
1982年(昭和57年)6月、控訴審で執行猶予付きの減刑となる。
1987年(昭和62年)1月、無罪を求めた被告からの上告は、最高裁により棄却され
第二審通りの有罪が確定された。
しかし、ホンダ側の無罪の判決を待つ18年の歳月は余りにも長く、
1970年代を境目にして360規格の軽自動車の生産台数、販売台数とも
衰退の一途を辿る。その他にも、日本全体が経済的に豊かになり、
普通自動車の購入が拡大していった背景もあると思うが、
1978年(昭和53年)にスズキ自動車が発表した『スズキアルト』の47万円の
軽自動車が爆発的な販売台数を記録したのを考えると、メーカーとしては
到底納得のいく問題ではなかったはずだ。
この問題は非常にデリケートな部分が多いような気がする。
また、人命に関った問題なので、法律のことに関して
まったく無知な私がとやかく言える問題ではないので
差し控える。
ラインが止まった
コンベアーなどの機械的なトラブルや人為的なミスにより
時々、ラインが止まったり、化成課のトラブルにより
空ハンガーと言って、ボディを吊り上げてくるハンガーに
車が載ってこない時があった。秒単位で組み立て作業に
追われる私達にとって、空ハンガーの数が多ければ多いほど
休息の時間が増えるので、皆喜んでいた。
私の居た班では、化成課の様子が解らないので、何台分
空くのか解らなかったが、後の班になればなるほど、何も
載っていないコンベアーの様子が解り、羨ましい限りだった。
今になって考えると、ホンダとしてはその分生産台数が減るのだから、
深刻な問題だったに違いない。
そんな状況の中で、事件は起こった。
起こったと言うよりは起こしたと言う方が正しい。
話はこうだ。前述のワイヤーハーネスの取り付けを
している人に、『中検』から、「ハーネスがブレーキマスターシリンダーに
干渉している車があるので、注意して作業をして欲しい」との打ち上げがあった。
早速、作業を一緒にしてみて、確かに、いつもよりハーネスが硬くて
指示通りマスターシリンダーを避けるのは大変だったような気がした。
それでも、班に与えられた取り付け作業を、各人に振り分ける一端を
担った私としては、やってもらわないと困る。
こうすれば大丈夫だとか言いながら何台か、自分で取り付けたのだろう。
しかし、毎日何時間も作業している人はそうはいかず、手の皮はかなり
痛んでいたのを知っていた。
そんな時に口論となり、部品が付いていない車をそのまま流す訳にもいかず、
非常停止ボタンを力の限り叩いて、ラインを停止させた。
当然、後の班にはボディが行かず、確か班長に止められたような気がした。
冷静をよそおっていたはずが、相当興奮していたのだろう、
S係長が仲裁に入ってくれてやっと、平常心を取り戻せた。
昼休みにM課長にきちんと握手をして、絶対に後に遺恨を残さない事を
約束させられて、やっと解決した。
叱責される事もなく、何の処分も無かったのが、今考えると不思議だ。
いや、そのあと、浜松製作所や鈴鹿製作所に出張(正確には応援)を
命じられ、戻った時には、他の班(メインライン)に配属が変わって
いたのは無関係ではなかったのかもしれない。
その時の上司が近くに住んでいるので、機会があったら聞いてみよう。
先人の言うとおり、若いうちは少しくらいトラッブっても割りとうまくいく
もんだ、と関心させられた。その後、彼とは、同じ寮ということもあって
親しくお付き合い頂いた。思い出して筑波サーキットに一緒に行った時の
写真を眺めてみた。『若い!』。
始めて買った車 N360
本当は、スズキ自動車の『フロンテクーペ』が欲しかった。
水冷3気筒、3キャブ、リヤーエンジン、二人乗り、フロント
ディスクブレーキの『GXCF』。デザインは一世を風靡した
デザイナー『ジウジアーロ』の手によるものであった。
同じ本田技研の寮に住む友人が『従業員特別販売』の
応募に当選して、N360を安く買う事が出来るようになったが、
実家の両親の都合で、退職する事になり、急遽、私が
権利を譲り受けて、買う事になった。
トニーイエローの『Sタイプ』である。残念なことに
シングルキャブレターであった。
確か、月々3,000円、ボーナス月30,000円位で
3年くらいのローンだったような気がする。
入社したばかりの頃は、独身寮から駅まで歩いて10分
それから電車で15分、そこからまた急ぎ足で10分、
電車で15分、工場の近くの駅に降りて歩く事更に
15分位か、およそ1時間かけて、早番の時など
眠い目をこすりながら、通勤していた。
その後、車を持っている先輩に、往復、乗せてもらい
通勤地獄から救われた。その時はきっと当たり前のように
乗せてもらっていたようで、恥ずかしい。
もし、こんな文章が目に触れることがあったら
この場を借りて改めて、感謝申し上げます。
また、その頃より公私共にお世話になっているKさんには
今、こうして回想していて、忘れた事など、教えていただいている。
話がが随分それてきたが、こうして念願のマイカーを手に入れる
事が出来た。
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HONDAZ、ライフ360などを掲載してあります。
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